シリア、ヨルダン周遊 平成20年9月10日-9月20日
中野暢夫・賀代子
近隣全体図
世界の宗教と歴史の舞台
シリア、ヨルダンは全体図で見ると、この地域が世界の宗教や政治の歴史の舞台であったことが分かる。
まず、モーセがエジプトで奴隷のように扱われていたイスラエルの同胞を連れてシナイ半島をさ迷いシナイ山で十戒を神から授けられて、ヨルダン川、死海までやってきた(「出エジプト」)、これは 紀元前 1200年代のこと。
紀元前350年代になるとアレキサンダー大王の東征が始まる。エジプトを征し、地中海東岸から遠くはインドまで征服。
次にローマ帝国の勃興により、この地域は帝国の属国と化し長い間支配されたこと、ローマ帝国の実質的創設者であるカエサルは 紀元前 100年ころの生れで、紀元前44年暗殺された。このころカエサルと出会ったクレオパトラは、エジプト王朝最後のファラオとなった。
次にイエス キリストが出現、 紀元前4年ころ誕生、そしてキリスト教は紀元後 380年 皇帝テオドシウスによりローマ帝国の国教となり、この地域もキリスト教化していった。
その後 シリアの隊商商人として活動していたムハンマドが、紀元 610年頃アラーの啓示を受けてイスラムの教えを説き始め、以後アラビア半島から領土拡大をすすめこの地域もイスラム化していったわけである。
シリア、ヨルダン周遊のうた
2008.9.10-9.20
中野暢夫
シリアアラブ共和国
(人口1800万、アラブ人90%、首都ダマスカス、面積日本の2分の1)
ダマスカスにて
・ひと住みて四千年来栄えたる世界屈指の古都ダマスカス
・隣国のイラクを指してアメリカとシリアのガイドにやりと嘲笑う
・古来より民族文化宗教の入れ替わりたるシリアは中東
・ウガリット粘土に刻むアルファベット世界最古と歴史にうたう
-ウガリットはダマスカスの北240キロ地中海沿岸-
ダマスカスの旧市街(世界遺産)大通り、スーク(市場)前
シリアの英語ガイド(右)道中反ブッシュで
互いに親近感をもち親しくなった
ダマスカス旧市街 ウマイヤド・モスク、前身はキリスト教会、
現在も使用されている世界最古のモスクのひとつで、最大級
イエスの洗礼者ヨハネの首が収められている神殿(写真中央)
ローマ法王も近年訪問、キリスト教徒も訪れるというめずらしいモスク
ウガリット文字
アルファベットの原型となった世界最古の楔形文字、
その出土した粘土板の模型、ダマスカス国立博物館
パルミラ遺跡にて
(世界遺産、ダマスカスから230キロ東北)
・パルミラもシルクロードの中継地民族文化 行き交う歴史
-ローマ帝国の弱体化を機に帝国内に一時(260年―273年)ゼノビア女王率いるパルミラ王国がカッパドキア、シリア、パレスチナ、エジプトを支配し独立した時代があった。 が、ローマの反撃によりゼノビア女王は捕らえられ、街は徹底的に破壊され衰亡し現在に至っている。 このローマを相手に、弱体ながらゼノビア女王が軍団に行った檄が有名-
アラブ城塞からパルミラ遺跡を見下ろす
砂地部分が都市であった、真ん中に
街の列柱道路、その先にベル神殿が見える
パルミラの街の跡、右門から始まる列柱道路は1200メートル続く
列柱道路の両側は住居、商店街、神殿など広域の街
ゼノビア女王の宮殿の風呂場跡、
ゼノビア女王
美貌と英知、勇気を兼ね備えた
ゼノビア女王
-ゼノビア女王の物語-
パルミラはローマ帝国の属国でありながら、帝国が弱体化した時期にトルコ、シリア、パレスチナ、エジプトまでの広範な領土を支配して独立した時代があった。 しかしローマ皇帝も代わり、有能なアウレリアヌスになると、ローマはパルミラ王国を元のローマの属国に戻そうとして、ゼノビア女王自らが率いるパルミラ軍と各地で戦い、ゼノビアをパルミラ城に追い詰めてとうとう降伏勧告状を送りつけた。
城を包囲されたパルミラは、軍議のなかでゼノビアの側近(ロンギノス)が、「かつてパルミラがペルシャを助けたことがあるので、ペルシャに援軍派遣を頼めば必ずや来るだろう、それまで籠城戦を持ちこたえれば、パルミラはローマに勝てるに違いない」と作戦を軍団に提議した。
しかし問題は誰をペルシャに派遣したらペルシャの王が応じてくれるかで、軍議はもめた。そのとき、突如ゼノビアが、「自分が行く、自分ならペルシャ王も必ずや聞き入れてくれるであろう。 それしかパルミラを救う道はない」と言い、降伏勧告状をその場で真二つに破り捨てた。
そしてローマ皇帝に「あなたはクレオパトラが生きながらえるより、誇り高く死を選んだことを知らないようである。 我々にはペルシャの援軍が加わり、必ずや勝利するであろう」と返書を書いたのである。
ゼノビアの決意を聞いて軍団はペルシャが来るまで何としても持ちこたえようと大いに士気が上がった。そして夜にまぎれてゼノビアは従者一人を連れて城を抜け出し一路ペルシャに向かった。 しかしパルミラ軍のなかに密告者がおり、対岸を渡ればペルシャというユーフラテスの川岸に着いたとき、ゼノビアは追ってきたローマ軍に捕らえられてしまった。
ローマ皇帝アウレリアヌスは策略家で、パルミラ人に告げた。「ゼノビアは捕らえられた。 もうペルシャの援軍は来ない。」 そして「ゼノビアはローマとの決戦の返書を書いたのは側近のロンギノスで、自分の意志ではないと言っている。」と。 従って、「我がローマは、その側近のみを罰し、ゼノビアとパルミラ市民の罪は一切問わない」という降伏条件を提示した。
ローマ皇帝は、そうすることにより、パルミラを平和的にローマの属国に戻し、帝国辺境の守りを固めようと画策したわけである。
これを聞いたパルミラ軍団は、「尊敬するわが女王がそんなことを言うはずがない、もう自害しているのではないか、戦うべきだ。 いやいや女王も捕まってしまえば、今のうちに降伏したほうがよい」と軍議は大いにもめたが、結局ローマの寛大な降伏条件に乗せられて降伏を受け入れることになった。
ところがローマ軍団が退却を始めてまもなく、パルミラ軍はローマ軍を追い反撃の挙にでたため、ローマ軍は今度は徹底的にパルミラを破壊し尽くし、今日に至ったというわけである。
「ローマ帝国衰亡史」の著者である英国の歴史家ギボンによると、「ゼノビアは、クレオパトラに勝るとも劣らぬ美貌と英知と勇気を持ち、全ての女性の内で最も愛らしくそして英雄的である。歯は真珠のように白く、大きな黒い瞳は不思議な輝きに満ちて魅力的である。」、そして「オリエント世界で屈指の女傑」と評価しており、今もシリアの伝説的英雄となっている。
ローマ皇帝は「1女王に手を焼いた」という自分に対するローマ人の非難を聞いて、「ゼノビアの実力を知らない者の言うことだ」と自ら反論を書き残しているほどである。
なお、ローマに捕らえられたあとゼノビアは、皇帝アウレリアヌスのローマ凱旋式に出されたが、その後の消息ははっきりしない。 自害はしなかったようである。
私がシリアのガイドに、「今残っているパルミラの遺跡は、もともとローマの遺跡ではないのか」と聞いたところ、「とんでもない、ほとんどはローマ以前の我々の祖先が建てたものだ」と、むきになって答えていた。 彼はローマは侵略者だと認識しているようであり、ゼノビアには特別な感情を持っているように感じた。
これに関して思ったのは、カエサルやアウグストスを尊敬する塩野七生は、「ローマ人の物語」の中で「パックスロマーナ」を、最高の政治哲学として挙げているが、パックスロマーナとは、「ローマによる平和」と訳され、「ローマは領土を広げても支配せず、その地の安全を保証する、ただ辺境からの脅威をローマと一緒に守ってくれればよい」、ということで、多くはそれが受け入れられて、反乱もなく帝国の領土拡大に繋がったということであった。
しかしシリアのガイドの態度から見て、塩野七生の理解のようにはローマの支配はよく思われておらず、小さな文化・民族と言えども、異民族の支配下に甘んじることは本来ないのではないかと痛感した。 イラク、イラン、アフガニスタンもしかり。
注 クレオパトラ 紀元前70年生まれ、紀元前30年没
ゼノビア 紀元後240年ころ生まれ、275年以降までは生存
・民族の誇りにもえるゼノビアはローマに挑むもついに敗れり
・ゼノビアの民族おもうその気概いまだシリアのこころに生きる
・広大な遺跡残りしパルミラはシリアの誇りゼノビアの国
マアルーラにて(ダマスカスから50キロ北)
マアルーラの街
・イスラムの国に残りしキリストの教え守るはマアルーラのひと
・岩山に立つ家はみな十字架の屋根もつ街はシリアマアルーラ
・神のみぞいかにも住むと思わせぬ切り立つ崖に 教会の立つ
・キリストの話せしことばアラム語をいまも使うはここマアルーラ
・アラム語の説話響きし教会に流るる霊気はいまも昔も
-マアルーラの人口は2万5千、90%がクリスチャン、イエスがヨルダン川や死海のほとりで教えを説いていたとき使っていたアラム語を今も(1万2千人が)話す世界で唯一の街-
マアルーラの聖テクラ修道院
訪れたこの9月14日は偶然年に一度の大祭
であった、聖テクラ修道院に向かう信者たち
この日皆声を上げ踊り狂っていた聖セルジウス修道院、踊りの輪に入るWSC大湊さん
踊りを見下ろす信者や観光客、この修道院の祈祷室でアラム語による説話が行われた
クラック・デ・シェバリエにて
(ダマスカスの150キロ北、もと十字軍の要塞、のちイスラム支配)
・イスラムのモスクに響くミフラーブの聖なる祈り目を閉じて聴く
-ミフラーブとはメッカの方角に向いたモスク内の壁に彫られた祈り発声の場、
お経が大反響する-
クラック・デ・シェバリエ(世界遺産)、もと聖ヨハネ騎士団の城塞
ミフラーブの前で大音声でお経を唱える青年
ヨルダンハシミテ王国
(人口600万、アラブ人98%、首都アンマン、面積日本の4分の1)
ネボ山にて(首都アンマンから南西50キロ)
・シナイ山ヨルダン川と北上すモーセの一団カナンを目指す
カナン=エルサレム周辺=乳と蜜の流れる地=約束の地
・ネボ山に立ちて眺むるカナンの地ヨルダン川に死海のほとり
・この山に登りてモーセ指し示す約束の地は眼下にありと
・モーセ置き従者の向かうカナンの地いま眼前にはるか見渡す
・ネボ山にひとり残りて息絶えぬ神の掟に背きしモーセ
ネボ山頂(ビスカの頂)、カナンが見渡せる
モーセ記念碑、ネボ山頂
エジプトを出たモーセは従者とともにシナイ半島で40年さ迷ったのち約束の地
カナンを見下ろすネボ山に到達したが、モーセは従者とともにカナンに向かうことは
許されず、そこで120歳の生涯を終えたという
従者に道中はエジプトより苦しいと非難されてきたモーセは木の茂る岩場で「杖で一
度叩けば水がでる」と神の声を聞き岩を叩いた。すぐに水は出ずもう一度叩くと水が
湧き出て従者の喉を潤した。しかし一度叩けという神の命令に背いたとして従者とと
もにカナンに行くことはできなかった。
木の茂るモーセの泉
ペトラ遺跡にて(世界遺産、ネボ山から南150キロ)
・ローマより前に栄し国ペトラ隊商たちの 行き交う歴史
・巨大岩の裂け目の続くシクの道天を仰げば一筋の川
・歩めども歩めども続くシクの道突如あらわる 巨岩神殿
-ペトラは巨大な岩山で囲まれたなかに生まれた都市国家でメソポタミア、アラビア、地中海へ続く隊商路にあたり、シルクロードの要所として紀元前1世紀ころより繁栄を極めた。延々と続くシクと呼ばれる巨大岩の僅かな裂け目が国の進入路となっており、最盛期は3万の人口を擁していたが、紀元後2世紀初めローマの属州となったころからシルクロードの海路化と大地震で寂れ、通商はシリアのパルミラに移り衰亡したと言われている-
ペトラの街と遺跡は写真中央部の岩山群、
全体のなかに潜み、外からは伺い知れない
徒歩で岩山に到着、いよいよシクに入って行く
シクの道、崖の高さは60から100メートルあるという
シクの道、右下の岩の切れ目はこの町への送水路、
1963年には突然の豪雨で欧米観光客23人死亡
30-40分歩くとシクの終わりに神殿がチラリと見える
大きな一枚岩に刳りぬかれた神殿、エル・ハズネ
神殿を過ぎると開けた街の跡が現れる、穴居住居も多い
さらに進むと岩場、岩山となり、一時間ほど登ると
山頂の隠れた岩の間に突如現るもうひとつの奥の院、エド・ディル
ワディ・ラムにて
(サウジアアラビアとの国境に近いヨルダン南端、アカバ湾に近い)
ワディ・ラム
-「月の砂漠」を想わせるワディ・ラム、この砂漠と岩山の向こうにアカバ湾がある。イギリス軍将校ロレンスは、意表をついて海から攻めずにベドウインとともに岩山超えを敢行しトルコ軍のいるアカバ攻撃に成功した、映画「アラビアのロレンス」もここワディ・ラムでロケされた-
・ワディ・ラムの砂漠に陣地すロレンスはベドウイン族とアカバを目指す
・岩山と砂漠に暮らすベドウィンの羊の群れも数は少なし
ベドウインの生活するテント
ベドウインの観光テントで夕食,電気もなく周りは岩山
死海にて(ヨルダンとイスラエルの境界に位置する塩湖、琵琶湖の1.2倍)
・対岸はあのイスラエルパレスチナ死海のほとりは もやのなか
-死海には流れ出る川がなく塩分が高いので大量の水分が蒸発し霞むことが多い-
・たれかれも浮かびて遊ぶ水のうえ海より低い四百メートル
-死海は世界で最も低い海抜マイナス418メートルの地表に存在、水深433メート
ル、塩分濃度37%と高く、魚も住めないため、死海という、また異常に浮力が強い、
(通常の海の塩分3%)-
・死の海に多くの人の賑わいぬいまは世界の一大保養地
・潜るとも浮きて潜れぬ死の海は頭と足のひとラッコの群れ
対岸のパレスティナに沈む死海の夕日、ホテルの海辺
死海文書と保存の壷、アンマン考古学博物館、2千年前に羊皮紙に書かれた
ユダヤ教聖書で死海西岸の洞窟群で60年前に発見された、800巻から成る
海は直ぐ深くなる、浮力が強くひとかきで
体はひっくり返り、泳ぐのは難しい
すでに背は立たない、このままの姿勢で
少しずつ水をたぐり浜辺に帰還する
-了-